鳴子開運観音様の開眼供養無事終了のご報告




  2007年3月17日、洞川院境内に祀られている観音様の開眼供養が無事終了致しました。
  ご参列頂いた皆様に感謝申し上げます。

  写真は不空羂策観音様が鳴子温泉字末沢周辺を練り歩いていらっしゃるお姿です。

  当日のお天気は朝も夕も曇りのち雪という状態でしたが、
  観音様がお出かけになる数十分の間は 写真のように快晴となる瑞祥に恵まれました。

  お陰さまで多くの方に観音様とご対面頂くことが出来ました。大変嬉しく存じます。






不空羂策観音様のお出かけをお手伝い頂いた皆様は
「 鳴 子 み こ し 会 」の皆様です。

お手伝い誠に有難うございました。





  



           
 開眼致しましたのは次の観音様です。

       不空羂策(
ふくうけんじゃく)観音様・・・無病息災、財運祥隆 

       慈母(
じぼ)観音様・・・・・・子育て、健康

       救世(
ぐぜ)観音様・・・・・・学業成就、合格祈願


  観音様の来歴は次のように伝わっております。

  不空羂策(ふくうけんじゃく)観音様は、観音菩薩の変化(へんげ)身です。
  大慈大悲の羂策(古代インドの投げ縄のような武器)を以って、一切衆生を救護すると言われている観音様です。

  “悉く請願を空しからしめざる”が故に不空と名付けられています。
  
  玄奘経には不空羂策(ふくうけんじゃく)観音について次のように記されています。

  
「胎蔵界曼荼羅観音院に住し、其の尊容は異像異説甚だ多く、無病息災、財運祥隆を本願とする。
  諸観音中の随一となす。

  応永二年開基の当山は、元々中山平南原の地に花渕山(かえんざん)相光寺として中山城主、
  柏山相模守尊信公により建立ました。 しかし、南北朝の争乱に巻き込まれ  正保二年に全焼し、
  現在の地に再建し、末澤山洞川院と号しました。
  その時既に観音堂はこの地にあり、湯殿山系または鳥海山系の山伏達によってお護りされていたようです。

  観音堂の前には旧道の“奥の細道”も通っております。
  江戸時代にこの道を尿前の関に向かう松雄芭蕉と其の弟子曽良も、この観音様に立ち寄り
  参詣したことでしょう

  また、義経弁慶伝説として、鳴子町史には次のような謂れが残されています。 

  「平泉に向かう義経主従が当地に逗留の折り、里人の間には“せきしゃぶき”(流行り病)が広がり、
  命を失う幼子が多かった。ある夜、弁慶の夢枕に観音様が現れ、沢のほとりに観音堂を祀るように
との
  お告げがあった。 義経は金銀を里人に与え御堂を建立し無病息災を願い観音様を祀った。
  すると、さしも威を振るった“せきしゃぶき”も忽ち治まったという。

  永らくこの観音様は馬頭観音様と地元では言われておりました。
  大崎から鬼首(おにこうべ)にかけては名馬の産地であり、
  可愛がっていた大切な馬を亡くした際に奉納された絵馬がいくつも掲げられています。
  そのような絵馬などから馬頭観音様と言われるようになったものと思われます。
  しかし、2006年に、本堂建立250年を機に観音様の修復を行ったところ、胎内から書き付けの断片や
  焼けた木製の腕数本が出てきたものです。

  専門家による調査の結果、不空羂策観音様であることが判明したものです。
  無病息災、財運祥隆の御利益があらたかな、得がたい不空羂策(ふくうけんじゃく)観音様を
  「鳴子開運観音様」(なるこかいうんかんのんさま)としてここにお祀り申し上げ、開眼供養を行うものです。


       

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