三条山の歴史
       
 つわものどもが夢のあと                               

 三条山(さんじょうやま)は当山の後ろに聳える急峻な山です。

  中ほどに三条平(
さんじょうだいら)と呼ばれる平地があり、ここにはかって南北朝の時代に
  葉山(はやま)城という城がありました。
  葉山城は、鳴子の里を見下ろす日当たりのよい場所にあり、その中心をなす三条古屋敷
  (
さんじょうふるやしき)は、長さ25間(40メートル)、横20間(32メートル)の堂々たるもの
  でした。

  葉山城は1335年に石塔義房(
いしとうよしふさ)によって築城されました。

  石塔義房は足利泰氏(
あしかがやすうじ)の孫に当り、父頼茂の代に石塔氏を名乗るようになった
  ようです。

  葉山城は多くの枝城(
えだじろ)を四囲に置き、多賀城にあった南朝側勢力に対しました。
  東は萩野館(湯山古館)と呼ばれた平城を川渡名生定の滝岸に配し、西は中山平南原の中山城に
  柏山相模守を配しました。

  その他に川渡山際の山際館(
やまぎわやかた)、馬場高場神社ほとりの大西館(おおにしやかた)、
  赤湯鷲ノ巣の小屋館(
こややかた)などが枝城として葉山城の周辺の防備にあったことを
  「風土記御用書出」に見ることが出来ます。

 奥州の大将に任ぜられた石塔義房は,一族郎党を引きつれ奥州に入ります。
  奥州全域を戦略的に見て、大崎から鳴子の郷に入り、この三条山の嶮を選び葉山城を構えた
  ものです。この地から石塔義房は葉山城を居城とし奥州管領として北朝軍を統率し、
  多賀城の南朝方を圧しました。

  北畠顕家が和泉石津の戦いで戦死すると、南朝側の動揺を見て多賀城を攻めます。
  石塔義房の多賀城占領により奥州における足利氏の支配が確立します。

 その後、葉山城は足利側の内紛により焼失しますが、その経緯は以下のように伝えられています。

 「奥州を支配するものの、その後北朝側は足利尊氏方とその弟、足利直義方に別れて争いが
  起こった。石塔義房は長らく弟の足利直義方にあったため、この争いにおいても足利直義方に
  ついて戦った。

  足利尊氏方は、新たに斯波家兼(
しばいえかねを奥州探題に任じ奥州に送り込んだ。
  斯波家兼(
しばいえかね)は葉山城にあった石塔義房と対決するに及んだ。
  斯波家兼の軍勢は、軍評定のため川渡の伏見に集結し、やがて石塔義房方前線の枝城に
  攻め掛かかった。石塔義房方の軍勢は斯波家兼方を防ぎきれず、合戦原(川渡久田)に退いた。
  追撃してきた斯波方とこの地で大激戦になったが敗れ、葉山城に逃げ込んだ。

  防戦するも抗しきれず城は焼け落ち、一族もろとも討ち死した。
  三条山から流れ出る沢には、館の沢(
たてのさわ)や、御所水(ごしょのみず)と名づけられ、
  当山の他にもいくつかの寺院跡が残されています。城跡には土塁や礎石を巡らした一郭があり、
  郭内の石室に葉山権現が祀ってあり、“つわののどもが夢のあと”を偲ばせています。




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